2008年04月13日
playback umie
最近よくumieを作っていた頃を思い出したりする。 この写真は床の塗装をした時のもの。友達が塗料を用意してくれて、一緒に塗ったのも懐かしい。ドイツの自然塗料AUROのクリアを、刷毛で少しずつ丁寧に2日に分けて塗った。トタンの壁はオフホワイトに少し墨をいれて吹き付けた。そのときペンキ屋さんの足場は、今umieの本棚になっているのは知っている人は少ないかもしれない。 人の手の温もりが伝わってくる深い味わい、塗り斑があったってそれが自然に思えた。足場の板は長年のペンキが染み込んでいる。新しいを作らない、完璧なもののもろさ、驚きのない新しさはバブルが教えてくれた。いつまでも変わらない魅力、月日とともに魅力が増していくもの。僕自身の再生へのテーマは、umieそのもののテーマになった。 2002年から撮り貯めていた写真の整理をしている。その枚数の多さに驚いた。これから少しずつ取り上げていこうと思う。 |
航空自衛隊のブルーインパルスのショーがumie上空で行われていた日曜日、昼からは雨模様。 |
この土曜日に行われる新井仁さんとケント君のミニセッションンライブに素敵なゲストが登場します。新井さんのバンド、N.G
THEREEのメンバー、フィルさんがumie初登場です。僕もまだ会ったことがなく楽しみです。 3人揃っての歌も聴けそうです。ソロの新井さん、ケント君とふたりの時の新井さん、そしてロックな新井さん。いろんな新井さんが見れそうです。 チケットもまだ余裕があります。当日券も用意していますのでみなさんお誘い合わせの上お越しください。 <N.G.THREE プロフィール> Guitar & Vocal 新井仁(from NORTHERN BRIGHT、RON RON CLOU、The AUTOMATICS)、 Bass & Vocal 浦敦(from RON RON CLOU、The AUTOMATICS、ex HOWLIN' HACHIMA)、 Dr フィルホッパー(ex FIVE THIRTY)からなる Three Piece Band、エヌ・ジー・ス リー。THE VIEW、THE STROKES たちへの日本からの返答か!?昨年9月にリリースし たアルバム "Lo Fidelity People Are Coming Back!!!" を引き下げての Japan Tour 2008!Tight に Loose に、そして時に Mellow に、Soul で Rock を Rock する Sonic Funk Sound!体感せよ! 今週末から、umieライブが始まります。18日金曜日は島津田四郎アワーVOL6、そして20日土曜日はHitoshi
ARAI with Kent FUNAYAMA mini session liveです。4月26日土曜日は SAPATOSのふたりです。 |
投稿者 dna : 02:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年04月11日
playback umie
2001年暑い夏だった。僕は汗まみれになりながら、北浜の倉庫にいた。 北浜に事務所の移転を決断してからの僕は、毎日ここに来てはレイアウトを考えたりしていた。荒れ果てた倉庫の中は手探り状態。今のumieからは想像できないほど、何十年と人の手の掛かっていないところだった。当時はリノベーションなんて言葉は無かったし、僕は知らなかった。僕は一体何をしようとしていたのだろうか? 自分の思うデザイン、広告を作りたくて、柳沢広告制作室を立ち上げたのが1996年。スタッフ一名と僕と小さな広告制作室でした。仕事は忙しかったが、楽しい時代だった。怖いぐらい公私共に順調だった。今を思えば、僕は本当の苦労を知らずに、デザイナーとしてやれていた。 だがある日を境に、僕に悲しい出来事が重なってやってきた。バブル後遺症か取引先の倒産、十年近く続いていたクライアント、企業の業績悪化。加えてスタッフの病気が発覚。対処の間もなく、仕事の流れは悪くなっていた。景気の悪さは広告関係の人事をも悪くし、僕の知り合いも何人か業界を去っていなくなってしまった。さらに追い討ちをかけるような制作費の低下は、仕事の質を変えてしまった。 僕の生きる道は残されているのだろうか、僕がしてきたデザインなんてなんの役にもならないものだったんだ。やる気を失いかけてた僕はいろんなところへ出かけたりして自分をごまかしていたが、僕の心にふつふつと何かしなくてはとの思いがつのっていた。 僕の生きる道、デザインをもう一度やり直そうと思った。過去を忘れ、今までのスタイルを捨てることから、自分の再生が始まるんだと信じた。狭い業界からはみ出して、新しいデザインの有り方を見つけること。もっとデザインを身近に感じてもらえる場所作り。 北浜の倉庫とは、そんな時に偶然に出会った。ここを自分の働き場所と決めた一瞬だった。その年は僕にとって暑い夏だった。当ての無い僕の新しい始まりでした。この写真を見るたびに、僕の心は落ち着く。先を恐れず、まず動く。動いて考えて、また動く。 この繰り返し。やがてこの場所はumieという名のカフェになった。 あれから7年、僕はまだデザインの現場にいる。また暑い夏が来る。 木曜日はみんな徹夜、事務所で仮眠。今日提出のデザインをぎりぎりまで粘ってやりあげた。本質を描くんだよ。机に並んだデザインを眺めてはやり直す。新しいことを描くことだけがデザインではない。ものを見つめ、人を観察し、過去、現在、未来を思ってみる。削いで、削いで、残ったもの。それは古くて新しい発見でした。 プレゼンテーションが終わったその夜、眠気とともに心地よさが僕を誘う。 |
投稿者 dna : 21:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月22日
僕のデザイン生活 VOL.2
21歳で地元の広告代理店の制作に何とかもぐりこんだ僕は、先輩たちの筆洗いをしたり、当時は手描き、レタリングなんて言葉もあった。写植文字といって一文字づつ写植機で打っていたが、その一文字、一文字をカッターで切り、文字詰めをする先輩をみて凄いと思ったり、右も左も分からないまま日々を過ごしていた。 その頃は地元の商店街などの仕事が多かったが、丸亀町商店街など華やかな時代だったと思う。 年末になるとクリスマス、正月の飾り付けに借り出され、全社員が真夜中に作業をしていた。その当時の高松の冬は、今と比べるとかなり寒かったように思う。僕たちも女性用のタイツを履いたりして防寒していたが、思い返せば滑稽でした。新聞広告、チラシ、看板など、この頃の経験が後になって役立つなんて思ってもいない頃でした。印刷物も4色カラーではなく、ツートン2色を掛け合わせて3色のような色をだしたりしていた。 そんなこんなで平和なゆるやかな僕のデザイン生活は、25~26歳ぐらいまで続く。昭和50年代、良き時代であった。街にはユーミン、アリスなど今で言う青春フォークが流れていた。 |
こうして過去を振り返ることが多くなりました。人間の記憶はいいことしか残らないようにできているのか、いい記憶ばかりが蘇ってきます。時間のスピード、情報量など、今とは比べ物にならないゆるやかな時代でした。 27歳、僕のデザイン生活に変化が起きていく・・・。 |
投稿者 dna : 21:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年11月07日
僕のデザイン生活 VOL.1
僕がデザイン学校に行っていた二十歳の頃、もう30年以上前のことだ。 当時は、駅で石をなげたらデザイナーの卵に当たるなんて言われるほど、デザイン志望の若者で溢れていた。僕もその1人でした。デザイン学校は2クラス、140名ほどいたように思う。2年になると1クラスになっていた。 僕は何とか卒業したものの、ちょうどその頃はオイルショックなどで就職難、職は自分で探す他なかった。デザイン事務所に行けば、無報酬に近い給料を提示され、これでは生活ができないとあきらめた。 最後は、兄を頼りにある新聞社の制作部に入った。そこにはかなり年配の方々がおり、みんな契約社員のようだった。仕事は朝に受注表のようなものが籠に入っていて、来たものからそれを取り仕事をしていた。当然、僕に仕事がまわってくるはずも無く、ただ一日が過ぎるのを待っていた。右も左も何もかもが分からず、デザイン業の厳しさを最初に身にしみた。 結局、半年ほどでそこをやめ、高松に帰ってきた。 しばらくして地元の広告代理店にもぐりこんだが、そこも最初は経理募集で面接に行き、幸運にも採用されたのです。ふたりの先輩デザイナーがいた。僕は筆を洗ったり、社長室の蘭の世話をしたり、今では笑える雑用ばかりだった記憶がある。そんなこんなで、とても平和な僕のデザイナー生活がはじまりました。 今から思えば、当時のゆるやかな毎日は僕にとってラッキーだったのかもしれない。毎日図書館に行って、新聞広告をコピーしたり、本屋さんに行ったり、自由に学べる雰囲気が僕は好きだった。続く・・・ 季節のせいか、若い頃のことを思い出してしまいました。振り返ればあっという間の30年、今まだデザインの現場で働けている喜びを噛み締めています。 これから僕のデザイン生活と題して、僕の今に至るまでを書いていこうと思います。 また感想などお寄せください。 |
投稿者 dna : 00:53 | コメント (4) | トラックバック (0)
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